哲学

”優しさ”とはなんだろうか。

こんにちは。
心理セラピストのりお(@rio10Xu)です。

新型コロナウィルスが蔓延しており
不安が募るばかりの状況となってしまっていますね。

私自身もふとした瞬間に
不安がよぎることはあります。

最近感じた不安は
介護施設の職員やおじいちゃんおばあちゃんは
大丈夫なのだろうか。

と、ふと不安を感じました。

というのも以前、介護施設で働いていたことがあり
手足が不自由で認知症を患っているような高齢者の方々と接してきた経験があります。

入居している高齢者の方々は勿論のこと、
日頃から彼らを支えている職員の方々にとっても
大変な事態であろうことが推測できます。

特に施設は密閉空間でもあり
ご家族の面会、職員との触れ合いなどにより
感染経路が全くないわけではないです。

こんな時だからこそ、人と人とが普段以上に支え合いながら、
優しさを持って、悲惨な事態を乗り越えていく必要があると強く思います。

・・・・・

前置きが長くなりましたが、
今回のテーマは”優しさ”についてです。

“優しさ”というものは
私個人的には良好な人間関係において、必要不可欠な大きな要素の一つであると考えています。

“優しさ”があるからこそ
人は支え合って社会的に生きていけると言っても過言ではないくらい
私はとても重要な概念だと主張したいです。

ということで今回は、
私の考える”優しさ”について話を展開していきますね。

見返りを求める優しさは”優しさ”なのか?

あなたはどんな時にどんなことがあり
人からの優しさを感じますか?

心から、「この人は優しい人だな」って
感じる人はどんな人でしょうか?

私的には

その優しさに”見返りを求めているか否か”が大きく関係していると思っていて、見返りを求めていない優しさを受けた時です。

そもそも論ではありますが、
“優しさ”というような形容言葉は
受け取った側の主観に左右される為、

「これが真の優しさである!」なんてことは
先ず断言することができません。

“あの人はすごい!”
“このケーキは美味しい!”
“この本は素晴らしい!”

みたいなもので、

それは各人が自身の持つ主観に依存した解釈であり、
万人共通の解釈にはなりえないのと同様です。

ですので、あくまでこの記事の内容は、
私の主観に沿った話の展開にはなるんですけれども、

見返りを求める優しさとは例えばですが、

・優しくすれば相手から必要とされ自分の存在価値を実感できる。
・優しくすれば自分はここにいてもいい。
・優しくすれば相手から自分への好感度があがる。
・優しくすれば相手から認めてもらえる。
・優しくすれば相手から愛してもらえる。
・優しくすれば相手からも優しくされる。
・優しくすれば相手との関係を維持することができる。
・優しくすれば相手から認めてもらえる。
・優しくすれば周りから、社会から承認を得られる。
・優しくして相手の感情をコントロールしたい。

などが考えられますね。

考え方のベースが自分の”損得勘定”で成り立ってしまっていて
相手を自分の欲求を満たす道具としてしまっているようです。

それが全て意図的でなくとも
無意識に起こってしまっていることも往々にしてあります。

無意識に起こることは怖いですよね・・・。

私の考え的には、これらは”優しさ”とは呼べず、
“優しさの仮面”であると勝手に呼んでいます。笑

あなたはこのような”優しさの仮面”を受けた時に
心から”優しさ”を享受することができるでしょうか?

どうしたら相手に優しくすることが出来るのか

人は他者から受け取った感覚を
自分の感覚として腑に落として初めて理解することができます。

「受けとめてもらうとはこういうことか。」
「寄り添ってもらうとはこういうことか。」
「愛されるとはこういうことか。」
「大切にされるってこういうことか。」
「優しくされるってこういうことか。」

そうやって一つ一つ、自分の体感覚として記憶していきます。

特に愛着理論でもよく述べられているように
幼少期の親からのアプローチによって
その体感覚の表れは強く影響してくると言われています。

その体感覚がわからないまま成長していくと
理論や理屈に依存しやすくなり
先ほど述べたような”損得勘定”での捉え方がベースとなってしまいます。

確かに、人生生きていく中で損得勘定で物事を思考することはとても大切であり、必要な能力でもあることは言うまでもありません。

しかしながら、
人との深い関係性を築くに当たり、損得勘定のみ、言わば、利害関係でしか繋がることしかできないとなると、人間関係において問題が勃発する可能性が高まるわけです。

別にそれが悪いわけではありませんが
自分自身がそういう生き方でも良いのか?ということであり
何の違和感もなく心からYesと言えるのであれば

法に違反したり、他者に迷惑や害を被るものでない限り
それはそれで誰も咎める権利はありません。

話を戻しますが、
“優しさ”とはどういうものかというのが
自分の体感覚として腑に落ちているからこそ
相手にも優しくできるというわけです。

自然と湧き上がる優しさが”優しさ”なのか?

そうやって優しさを自分の中で知って
相手にも優しさを与えることができるようになるわけですが、

その”優しさ”とは
相手の為になる相手に対して自然と湧き出る感情や行動だと考えています。

例えば

電車で優先席を求めている高齢者に対して咄嗟に席を譲ったり、(やばい!譲らなきゃ!という感情ではなくてね。)

友人が困っている時に手を差し伸べたいと自然と思ったり、

相手が無意識的に繰り返している失敗行動に対して指摘をしてあげたり、

要は、そうすることで自分が何かを得られる、というものではなく、
自然と相手の為を想う気持ちが先行した結果の行動です。

その思いに裏の意図はなく、
相手がそれを仮に受け取らなくとも、受け取った先に優しいと感じなくとも、
自分はその結果に対して反感や恨みなどなく
相手に何かをしたいと思った純粋な自分の気持ち自体を認めることができるものだと思っています。

以前、居酒屋で飲みの場がありましたが、
その時にとある人の行動が目に入って気付いたことがあります。

仮にAさんとします。

その時は鍋をみんなで食べに来ていたのですが、
Aさんの目の前に鍋があり、鍋から物理的に届かない人もいて、
その人たちは自分ではお皿に取ることができない状況でした。

その状況をAさんは瞬時に察したのか、
Aさんは鍋から遠い人たちに対して取り分けてあげていました。

Aさんの近くにいる人に対しては取り分けせずでした。

これがどういうことを表しているのかというと、

本当に困っている人(物理的に鍋に届かないので取れない人)に対しては自然と手を差し伸べ、困っていない人(物理的に自ら鍋を取れる人)には、過剰にお世話をしない対応であったということで、

仮にAさんが何か見返りを必要としてるならば、鍋の目の前にいる人たちに対しても何かしらアプローチをしていたはずです。

でもそのようなアプローチは一切ありませんでした。

本当に困っている人に対して、自然と手を差し伸べる行為をみて
「これが”優しさ”だよなあ。」と一人で感心してしまいました。笑

“気配り”ではなく”優しさ”という場面を垣間見れた出来事でした。

結論何が言いたいのか

はい、結論です。笑

この記事を通して私が何を伝えたかったのかというと

「見返りを求めている優しさは、”優しさ”なのであろうか?」

という解のない哲学的な問いかけと

「”優しさ”は作り出すものではなく、自然と湧き出るものであり、優しさを体感してこそ、初めて理解することができる。自分の心を内観し、優しさを養い、そして相手に与えることができる。」

という主観的解釈で締めたいと思います。

形容言葉を定義するのは難しく
結局のところ書き手の主観になりがちなので
賛否両論あるかとは思っています。

ただ、私はこういった見返りを求めない優しさこそが
人と人とを深く繋ぐ要になると考えているのは事実であり
これからも大切にしていきたいと思っている価値観の一つです。

恥ずかしながら以前の私は、相手に必要にされようと優しさの仮面を振り巻き、自らの存在価値を実感するために”優しさ”を使っていたこともありました。

その一方で、損得勘定なしで人の相談に乗ったり、”結果として”それが優しさに繋がったことも多々あり、
今回改めて振り返ってみて思考の整理をした背景で今回のテーマにしてみました。

今後も、その素直な自然な優しさは大切にしていこうと思います。

何か一つの参考になれば幸いです!
ではでは!